あおくさいまま

あなたの幸せは、未熟老人の、この、ブログを育てることで、少し手に入る。 そして、ボケ老人が一人減るかも。 皆様でお育てください。

2017-08

法話会(通訳付き)

  何も考えずに「行きたい」と言う気持ちだけで参加した
クサラダンマ長老「仏教法話会」』全くの初めてのこと。

 礼拝は隣の人を見まねて「ふり」だけをして過ぎるのを待つ。

 法話は三蔵(教・律・論)の「論」を中心に
参加者の質問を交えながらの進行でした。
休憩なしの3時間半でした。

 驚くことに中座する人がいない。
爺さんは3回も中座しました。
そのことを質問すると「トイレは我慢することなし、自然にと言った感じ」
更に気が散ったときに「トイレ」へ行きたくなると話すと
「落ち着きなさい」とのご指導を頂く。
爺さんにとっては「ズボシ」と言った感じです。
日常に生かしたい。

 修行と言ったらよいのか、
瞑想の効果と言ったらよいのか分かりませんが
参加者様のおだやかで落ち着いたご様子にビックリです。

 「有難うございます」の気持ちが自然に浮かびます。
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わかるようで、わかりたい

  今どきの暮らしでは知識は無いよりはあった方が良い、
と普通に思ってしまう。
でもこれを読むと????状態

 それは
『「これ」と言う答えの出ない状態は知識の世界です。
知識というものは「ひとつのものについて」
様々な意見がでてくることです』

 例えば人が考えれば考えただけの世界が現れ、
分析すれば分析しただけの世界が現れ、
決して終わることが無い。
 つまり「これ」に、たどり着けないでしょ。
という捉え方なのかな~。

 では
「これ」は知られることでしょうか。
お釈迦様の教えられたように実行すれば、誰でも可能なことです。
とあるでしょ。という意味合いのようだが・・・・・

 で、爺さんの思いうかぶことと言えば、
「悪」をせず、「よい」ことを心がけるぐらい

この記事は「宗教法人日本テーラワーダ仏教協会」のHOME→「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【71】 生きることは大変かを参照に感じたことを記事にしています

「無我」の教えと「わたし」(4)



真理とは誰にでも実証・実行できることである。

将棋の藤井4段が29連勝したと連日マスコミを賑わしている。
それに関連したグッズも不足気味となどと大フィバーです。
73歳の爺さんの浮かぶ言葉はこれ「神童」。
こんなこともあるのんだとビックリするだけです。

日々の中で特に意識をしないで過ごすことが多いと最近気づく。
それは「真理とは。正しい生き方とは…誰にでも体験できること。
実証できるものである」と言うことを読んだからである。

自分の行い、感情を一つひとつ確認する、その繰り返しがそれを可能にする。
そうであれば「ぼ~っと」するときも多い爺さんでもご飯を作り、洗濯もする。
その行いを一つひとつ確認しながら行動することで真理が備わる。
つまり「ぼ~っと」しているときは今『「ぼ~っと」している』
妄想したら『妄想している』と確認する。
そのように確認を繰り返しすることで、
不安の生じない状態になれるという教え。

これならば爺さんにも出来そうな気にさせられる。


「無我」の教えと「わたし」(2)

 
 前回の『「無我」の教えと「わたし」』は生まれてからの変化の連続が「わたし」です。
固定された、変化しない「わたし」は無い(無我)と言うお話。
それをもう少し具体的に観ます。

 怪我をした、病気になった。病院に行って診てもらう、
その体自体は生まれてから変化の連続ですし、
いずれかの時点で終わることは誰でも知ることである。

 一方、目で見て確認する、耳で聞いて確認する等,五感で確認するのも「こころ」。
仕事を終え家で寛ぐときの「こころ」、「約束をスッポ抜かされたとき」
「わかっているけどやめられない」と言った時の「こころ」、
生徒が騒がしいと先生が「授業に集中しなさい」と言うと静まる、
その変化をさす「こころ」。
つまり生きていることは「こころ」の変化の連続です。
これを固定された、変化しない「こころ」は無い(無我)と言う話。

 肉体の変化は終われば土にかえるだけです。
では「こころ」に終わりがあるのか、無いのか・・・・確認できません。
縁起の法則そのものです。(四諦)

 お釈迦様の教は、執着の「こころ」を無くし、「悪」をするよりも「善」をした方がいいでしょう。
「間違い」をしたら「謝りなさい」そして間違いをしないように「直しなさい」
このことの繰り返しが必ず「幸せ」をもたらす
(涅槃・解脱・悟りに確実に近づくと言う、不安の無い「こころ」のありよう)という教え

 言われてみればその通りなのですが・・・が、
偽りのない今の自分です。




「無我」の教えと「わたし」


先日「無我」の教えと「わたし」と題した講座をうけました。
講師は「日本テーラワーダ仏教協会」A・ スマナサーラ長老です。
73歳の爺さんは耳が遠く、記憶力も弱いです。
2時間の講義の中で、思い出せるものはこれだろうな~と言う話です

 「歳をとるってうれしいですか?」「体が弱っていくのは楽しいですか?」と聞かれれば
答えは当然「嫌です、一日でも元気でいたいです」と返事をして何の違和感もない。
つまり今のままで変化しない自分であってほしいと願っているのです。

 では「変化しない自分とはどうなったときですか・・・・❓」
ドッキリ、「死亡した時です」

 生まれてから、ずーっと変化の連続が私です。
つまり固定された、変化しない「わたくしは」どこにもありません(無我)と言うお話。

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プロフィール

かれいだにのよし

Author:かれいだにのよし
男・・・でも男はとっくに過ぎた お爺さん

お歳・・・決まって毎年一月十日に替わる。2010年満66歳

産地・・・富山県小矢部市嘉例谷(google earthで、生まれた家の屋根が確認できる)

名前・・・桜井 與三次郎

仕事・・・一生しない(好きなことを仕事にすれば 一生 仕事をせずに過ごせる。これ夢)

かわっているところ・・・間違い:失敗:ご迷惑:空気 読めないはもちろんです。そして、「事の良し悪しは 3歳の子でもわかる。それを 行うは80の爺さんでも難しい」と、開き直っている。

 拙いブログですけれども、リンクはフリーでございます。

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